代表プロフィール
生まれは三重県鈴鹿市で3人兄弟の次男として生まれました。
そして、小学2年生までは、鈴鹿市の玉垣小学校通っていました。
そして両親が、三重県津市でラーメン屋店を開店すると言うことで親と兄弟3人で三重県安芸郡河芸町というところに引っ越しました。
今までボロボロの平屋だったので、賃貸でしたが、2Fの家がなんか誇らしかったのを覚えています。
学校は上野小学校という学校に転校しました。
両親は朝7時くらいに仕事に行き、帰宅はいつも夜中の2時頃でした。
低学年の時は学校が終わると店に行き、4畳ほどの事務室で妹と店が閉まるまでいて、寝ている妹をおんぶし、母は自転車を手で押しながら3人で自宅まで歩いて帰るのが日課でした。
小学校に通っている時、少しヤンチャで何かと悪いことをして両親や学校の先生に迷惑をかけたことを覚えています。
(今はまじめです。笑)
そして小学4年生の時に兄弟集められてお母さんに
「お母さんとお父さんどっちと暮らしたい?」
と聞かれその時は意味が分からないけど聞ける空気じゃなかったので何もゆいわず遊びに行きました。
そして兄貴は母と出て行き、僕は父と暮らし始めてそして、僕が父に「なんでみんな出ていくの?」と聞くと
「商売うまくいかんから、とりあえず別れて暮らすことにした。いつかまた一緒になるけど」
その時は、すぐ帰ってくるんかなぐらいにしか思ってませんでしたしその時は両親が、3000万円の借金が元で破産したのも分かりませんでした。
3ヵ月位すると子供嫌いの父も家にほとんど居なくなり家に帰るのが、2週間に一回とかで給食代も払えず、学校で恥ずかしかったのを覚えています。
この時、どうやって生活していたかあまり覚えていないですが次第に、電気も止まり食べるものもなく妹も居たのですが、万引きをしたりしてなんとか食いつないでいました。(もう時効ですよね。笑)
家にあった調味料で生活していたり、酷いものでたまに父が帰って来きて夜になるとタンスの中で隠れるように寝ていました。(夜になるとチンピラ風の人が来て外で怒鳴っているからです。)
そこからも何回か引っ越ししましたが、同じような生活でした。
一回、母の弟夫婦が来て中華料理屋さんに連れて行ってもらったのを覚えています。こんな生活ですので小学2年生以降は、誕生日プレゼントも貰ったこともないですし、クリスマスプレゼントもお年玉も貰った記憶はありません。
てゆうか、そんな状況ではないことは、小さいながらに分かっていたので誕生日の日などでも「今日は、いつもと変わらない日だ。」と思い忘れるようにしていました。ですが、学校に行くとみんなこのような話で盛り上がっていたのでこのようなイベントが、働きだすまで大嫌いでした。
そして僕が、中学に上がると近くのアパートに移り父、僕、妹と暮らし始めでもやっぱり状況は電気は止められているし、食べ物は、塩味だけのおでんとかなんか戦後の食べ物みたいでした。
窓から入る、隣の車屋さんの電気などで勉強や漫画を読んだり、みんなして暮らしていました。そこからも何回も転々と引っ越しをして気づくと、それまでに計6回の引っ越しをしていました。
そしてなぜか中学2年生の時に母が迎えに来て母と暮らすようになり暮らしは普通にはなりました。
そして中学3年になり、みんなが高校受験の時、当時、仲のいい友達が入学予定だった高校が入学金8万円で、帰宅して「入学金8万円いるみたい」と母に話すと、「あぁ~わかった」とは言っていましたが、話す前から薄々は感じて居ましたが、お金がないんだろうなぁと雰囲気で分かりました。
この時卒業したら働く決意をしました。一応、友達の手前、お申込みはしましたが、当日わざと寝坊し友達には、『夜更かしして寝坊してしまった。』嘘をついていました。
15歳から足場屋さんで働きだし「お前は仕事早いな」って言われるのが嬉しくて一生懸命、朝から晩まで働き続けました。
18歳くらいの時「免許代出してもらった」「車買ってもらった」などのお金持ちの家がうらやましくて「いつかお金持ちの親よりお金持ちになろ」この時は、考えていました。
そして21歳の時に独立し久保組として個人事業をし始めました。ですが最初は、仕事もなく応援(日給で同業者の所へお手伝いに行くことです。)ばかりしていました。
応援でも嬉しくて一生懸命、毎日・毎日仕事に打ち込みました。でも仕事が暇な時期は、「明日から、暇やで今日で終わりな」と言われるので
「こんなん独立ちゃうなやっぱり足場資材買って請負いをしなければ!」(一軒いくらとゆう意味)と思い
仕事もらう宛すらないのに思い切って『法人化(株)久保組』して土地を借りてトラック1台と足場資材を購入し「一からやな」と思い24歳で職人5人と本当のスタートをきりました。
でも社長兼営業のやり方は誰も教えてくれないので、やっぱり現実は厳しく仕事がなく職人に資材置き場の整理させる日々が半月は続きました。(1日5万円位赤字でした。)
その間タウンページの工務店、建築など隅々まで電話したり、飛び込み営業したり塗装と足場セットのチラシを団地くばり歩いたりと・・・
自分で思いつく限りの営業はしましたが結果は当然まったく成果なしです・・・思うように仕事が取れず、一日中一人で営業について悩み次の日が、職人に合わせる顔もありませんでした。
でもそんな事を考えていても仕方ないので「取り敢えずできる限りはしよう!」と思い夜中も必死に汗をかいて団地や工務店などに自作のチラシなど毎日、くばり歩いていました。
そんなとき中学からの同級生のペンキ屋さんに仕事をもらい嬉しかったのを覚えています。
そうして、段々と成果も出てきてお客様(工務店・建設会社など)・資材・トラックも増えましたがそして次に困ったのは資材を買うお金がなく銀行いっても相手にもされず恥ずかしい話ですが、消費者金融などで最初はお金を借りなんとか回していました。(今は取引していません。笑)
そして数年経ち、当時良くして頂いていた、ある社長さんに銀行を紹介して頂き、
「今なら融資可能ですよ。」
と言われ、世間に認められたみたいですごく嬉しかったのを覚えています。
そうして段々とお客様(工務店・ペンキ屋さんなど)・資材・トラックも増えそんなある日いつもどうり塗装用の住宅足場にシートを張っていると塗装業者(ペンキ屋さん)が「客もおらんで水洗い適当でええぞ」と言っているのを聞き思わず
「えぇ~マジ?それあかんやろ」「なんでこの塗装業者頼んだんやろやろ?」と思いました。
でもお金を塗装業者から頂くので恥ずかしながらなにも言えませんでした。
そして塗装(ペンキ)も終わり「足場解体して」と塗装業者に頼まれ解体をしているとやっぱり地面から見えない所にペンキが飛んでいたり無茶苦茶でした。そして、掃き掃除をして帰る時にお客様に「お世話になりました。」と挨拶をすると
「綺麗になったな~ありがとう。」
と言われ逃げるように帰ったのを覚えています。
そして「これではあかんな」と思い本格的に塗装事業部を作りました。
~リペイント匠設立~
ですが、年々、工事の請負単価も各下請け業者で価格競争がひどくなり、元請け様からは、『〇〇塗装より安く〇〇万円で頼むわな~』と言われます。
世間でいう価格破壊のような価格なので良い仕事・お客様に数年後『頼んで良かった。』と言われる良い仕事ができないのは、わかっていましたが、
恥ずかしながら、断りたいのは山々ですが社員の顔を思い出すと
「わかりました!そこより安く頑張ります。」
と言ってしまう自分にいつも自己嫌悪に入っていました。
そうして行く内に、お客様に喜んで頂こうと始めた工事が、いつの間にか生活のためだけに仕事を受注する様になっていました。
「こんな事が本当に理想の仕事なのかな?これじゃ駄目だな~」
僕たち職人が直接、塗装工事を頂ければもっといい仕事ができるはず!
と思い脱下請けを心に決め、直接お客様から仕事を頂こう
「大手企業の利益のために一生懸命するよりも、本当の僕たちの仕事を直接お客様の提供しよう!」
と思い下請け仕事に逃げないように平成24年9月に(株)久保組を引退し、同年同月にリペイント匠を設立致しました。
そして沢山のお客様に支えられ平成25年6月4日より法人化し社名を株式会社 リペイント匠に改称いたしました。
それからも紆余曲折ありましたが、ついてきてくれる社員も多く、新しい仲間にも恵まれ、徐々に実績を積み、今では常に数か月待ちの人気の外壁塗装の職人直営店になり、地域1番店と呼ばれるようになりました。
そしてこんな家庭環境で育った僕でも一生懸命すれば、直接、お客様から仕事を頂けた
り紹介がもらえると思うとやる気があればなんでもできるんだなと思います。
また今までいくつもの困難と思う事もありましたが、そこから逃げず乗り越えてきたことで前進してきていると感じますので、好きな言葉は「初志貫徹」と「一生懸命」です。
■書籍出版
2021年3月に一冊目の書籍となる「家の寿命を20年延ばすはじめての外壁塗装」を幻冬舎から出版。
インターネットを検索すれば正しい知識、逆に正しくない知識など様々な情報が色々なところで発信されています。大変便利ではあるのですが、
その一方で情報量が多すぎるため、情報を整理しきれず、大切な家の外壁塗装で迷われて、業者選びで失敗する方も見えます。
そんな方のために外壁塗装の全てを一冊にまとめました。
各書店は勿論、Amazonでもお気軽にご購入頂けます。サイズは手に取りやすい新書で価格は800円です。