三重県津市 鈴鹿市の外壁塗装、塗り替え、屋根塗装の専門店。
至極丁寧安心施工で皆さまの家をお守りいたします。

代表挨拶
プロフィール

代表メッセージ

はじめまして、株式会社リペイント匠の久保です。私たち社員一同は「お客さまのお家を一軒、一軒自分のお家と思い丁寧に納得するまで責任施工」を毎日繰り返させていただいております。お気軽にお問い合わせください。

幼少期〜職人になるまで

生まれは三重県鈴鹿市で3人兄弟の次男として生まれました。

そして、小学2年生までは、鈴鹿市の玉垣小学校に通っていました。そして両親が、三重県津市でラーメン屋店を開店すると言うこと
で親と兄弟3人で三重県津市の上野小学校と言う学校に転校しました。

小学校に通っている時は少しヤンチャで、何かと悪いことをして両親や学校の先生に迷惑をかけたことを覚えています。
(いまはまじめです。笑)

そして小学4年生の時に兄弟が集められて、お母さんに「お母さんとお父さんどっちと暮らしたい?」と聞かれ、その時は意味がわからなかったけど、聞ける空気じゃなかったので何も言わず遊びに行きました。

そして兄貴は母と出て行き、僕は父と暮らし始めて、僕が父に「なんでみんな出ていくの?」と聞くと

「商売うまくいかんから、とりあえず別れて暮らすことにした。いつかまた一緒になるけど」

その時は、すぐ帰って来るんかなくらいにしか思ってませんでしたし、両親が、3,000万円の借金が元で破産したのもわかりませんでした。

それから、3ヵ月くらいすると父も家にほとんど居なくなり家に帰るのが、2週間に一回とかで給食代も払えず、学校で恥ずかしかったのを覚えています。

この時、どうやって生活していたかあまり覚えていないですが、次第に電気も止まり食べるものもなく、妹も居たので万引きをしたりしてなんとか食いつないでいました。(もう時効ですよね。笑)

家にあった調味料だけで生活していたり、酷いものでたまに父が帰って来きて夜になるとタンスの中で隠れるように寝ていたりしていました。(夜になるとチンピラ風の人が来て外で怒鳴っているからです。)

一度、母の弟夫婦が来て中華料理屋さんに連れて行ってもらったのを覚えています。こんな生活ですので小学2年生以降は、誕生日プレゼントも貰ったこともないですし、クリスマスプレゼントもお年玉も貰った記憶はありません。

と言いますか、そんな状況ではないことは、小さいながらにわかっていたので、誕生日の日などでも「今日は、いつもと変わらない日だ。」と思い忘れるようにしていました。ですが、学校に行くと皆んなこのような話で盛り上がっていたので、このようなイベントが働き始めるまで大嫌いでした。

そして僕が中学に上がると近くのアパートに移り、父、僕、妹と暮らし始め、でもやっぱり状況は変わりません。電気は止められているし、食べ物は塩味だけのおでんとか、なんか戦後の食べ物みたいでした。

窓から入る、隣の車屋さんの電気などで勉強や漫画を読んだり、皆んなして暮らしていました。

そして、なぜか中学2年生の時、母が迎えに来て母と暮らすようになりました。暮らしは普通にはなりましたが、皆んなが高校受験の時、母もお金ないだろうから、どうせ高校受験しても入学金はないなと思い、申込みはしましたが当日わざと寝坊し、友だちには『夜更かしして寝坊してしまった』嘘をついていました。

15歳の職人〜独立まで

15歳から足場屋さんで働き始め、「お前は仕事早いな」って言われるのが嬉しくて、一生懸命、朝から晩まで働き続けました。

18歳くらいの時「免許代出してもらった」「車買ってもらった」などのお金持ちの家がうらやましくて、「いつかお金持ちの親よりお金持ちになろ」とこの時は、考えていました。

そして21歳の時に独立し、久保組として個人事業を始めました。ですが最初は、仕事もなく応援(日給で同業者のところへお手伝いに行くことです。)ばかりしていました。

応援でも嬉しくて一生懸命、毎日・毎日仕事に打ち込みました。でも仕事が暇な時期は、「明日から、暇やで今日で終わりな」と言われるので、「こんなん独立ちゃうなやっぱり足場資材買って請負いをしなければ!」(一軒いくらと言う意味)と思い

仕事もらうあてすらないのに、思い切って『法人化(株)久保組』にして土地を借りてトラック1台と足場資材を購入し「一からやな」と思い、24歳で職人5人と本当のスタートを切りました。

でも社長兼営業のやり方は誰も教えてくれないので、やっぱり現実は厳しく仕事がなく職人に資材置き場の整理させる日々が半月は続きました。(1日5万円くらいの赤字でした。)

その間タウンページの工務店、建築など隅々まで電話したり、飛び込み営業したり塗装と足場セットのチラシを団地くばり歩いたりと・・・自分で思いつく限りの営業はしましたが、結果は当然まったく成果なしです・・・思うように仕事が取れず、一日中一人で営業について悩み次の日が、職人に合わせる顔もありませんでした。

でもそんなことを考えていても仕方ないので、「取り敢えずできる限りはしよう!」と思い夜中も必死に汗をかいて団地や工務店などに自作のチラシなど、毎日くばり歩いていました。

そんなとき中学からの同級生のペンキ屋さんに仕事をもらい嬉しかったのを覚えています。そうして、段々と成果も出てきてお客さま(工務店・建設会社など)・資材・トラックも増えましたが、そして次に困ったのは資材を買うお金がないこと。銀行いっても相手にもされず、恥ずかしい話ですが最初は消費者金融などでお金を借りなんとか回していました。(いまは取引していません。笑)

そして数年経ち、ある社長さんに銀行を紹介していただき、

「いまなら融資可能ですよ。」

と言われ、世間に認められたみたいですごく嬉しかったのを覚えています。

そうして段々とお客さま(工務店・ペンキ屋さんなど)・資材・トラックも増えて、ある日いつも通りに塗装用の住宅足場にシートを張っていると、塗装業者(ペンキ屋さん)が「客もおらんで水洗い適当でええぞ」と言っているのを聞き

思わず「えぇ~マジ?それあかんやろ」「なんでこの塗装業者に頼んだんやろ?」と思いました。
でもお金を塗装業者からいただくので、恥ずかしながら何も言えませんでした。

そして塗装(ペンキ)も終わり「足場解体して」と塗装業者に頼まれ解体をしていると、やっぱり地面から見えない所にペンキが飛んでいたり無茶苦茶でした。そして、掃き掃除をして帰る時にお客さまに「お世話になりました。」と挨拶をすると

「綺麗になったな~ありがとう。」

と言われ逃げるように帰ったのを覚えています。

そして「こうゆう塗装業者は追い出さなあかんな」と思い、このような塗装業者と戦う決意をし、株式会社久保組塗装事業部を作りました。

下請け仕事を辞める覚悟

~リペイント匠設立~

ですが、年々、工事の請負単価も各下請け業者で価格競争がひどくなり、元請けさまからは、『〇〇塗装より安く〇〇万円で頼むわな~』と言われます。

世間で言う価格破壊のような価格なので、良い仕事・お客さまに数年後『頼んで良かった。』と言われる良い仕事ができないのはわかっていましたが、恥ずかしながら、断りたいのは山々ですが社員の顔を思い出すと

「わかりました!そこより安く頑張ります。」

と言ってしまう自分にいつも自己嫌悪に陥っていました。

そうして行くうちに、お客さまに喜んでいただこうと始めた工事が、いつの間にか生活のためだけに仕事を受注するようになっていました。

「こんなことが本当に理想の仕事なのかな?これじゃ駄目だな~」
僕たち職人が直接、塗装工事をいただければもっといい仕事ができるはず!

と思い脱下請けを心に決め、直接お客さまから仕事をいただこう

「大手企業の利益のために一生懸命するよりも、本当の僕たちの仕事を直接お客さまに提供しよう!」

と思い、下請け仕事に逃げないように平成24年9月に株式会社久保組を引退し、同年同月にリペイント匠を設立いたしました。

そしてたくさんのお客さまに支えられ、平成25年6月4日より法人化し社名を株式会社リペイント匠に改称いたしました。

そしてこんな家庭環境で育った僕でも、一生懸命頑張っていれば、直接お客さまから仕事をいただけたり、ご紹介いただけたり、やる気があれば何でもできるんだなと思います。

だから好きな言葉は、失敗を恐れず「前進あるのみ」と「一生懸命」です。